昭和54年05月05日 朝の御理解



 御理解 第100節 
 「めでためでたの若松様よ 枝も栄える葉も繁ると言うではないか 金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ」。

 「めでためでたの若松様よ」とまあそういうおかげが、いっぺんに頂けるという教えではないのです。まあ言うならば「濡れ手で粟を掴むような気になるな」と教えられるように、または信心も一段一段とこう進んでいくとか、にわかに先生にはなれぬとか、と言うように、そのにわかになれない、一段一段のぼっていく。その登り詰めた所に、「めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁るというではないか、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教える」と。
 いっぺんにぱあっと儲けだす道というのではない、一遍に出来上るという道じゃない。それこそ一段一段と実意丁寧、いうなら神信心させてもろうておかげを頂くのです。金光様に参りゃ一遍にぱっと、成程そりゃもうまあ奇跡的なおかげが貰えます日々。先日も秋永英冶君のお得意さんで、もう病院では助からんと言われた病人がおかげを頂いて、ええもう病院に半分家に半分と言う様に、もう退院も間近という程しにおかげを頂いたというて、その人がおかげを頂いたと、その周辺に5人も6人の者もが助かった。
 先日も目が見えない人が、目が見えるようになった。どうなにお願いしても、お願いしてもお願いしても、あの神様にじゃないですよ、人に頼んでも息子の就職が決まらなかったのが、こちらに御願いをさせて頂いて、大変難しい試験が通って、就職のおかげを頂いと。これ三潴の方から、英冶君のお得意さんです、昨日おとといは6名で参って来ました。来るたんびに増えていく。ね。「いやぁ金光様ちゃあらたかな」。英冶君自身がたまがっているんですお導きして。
 ですからそういう、例えばあのおかげと言うのは、まっ言うならば神様のじつざいというか、神様の働きというのを、見せて下さる働きであると同時に、合楽のそれはヒレイによるものです。だから、合楽のヒレイによっただけのおかげではなくて、自分自身の信心、自分自身のヒレイになってこなければ、目出度目出度の若松様と言った様な事には、なって来ないです。
 なかなかいっぺんにならん、出来ると思われない。それこそ百節に私はこの御理解があるのは、その前は矢張り99節なんです。一から一遍にぱっと百にはならんでしょうが。しかも最後には99節。いうなら苦に苦が重なると言ったような中に、そこを乗り越えた向こうに、百節があるようなもんです。そりゃあおかげはあらたかです。神様の働きをそれこそ、昨日の御理解じゃないけれども、身近にしかもリアルに感じさせて頂くような信心を頂いていくから。
 それこそ98節であろうが、99節であろうが、そこんとこの節を乗り越え乗り越えしていけれるんです。これは私椛目の時代に、ある時にお夢を頂いた。懐中電灯のが落ちとるから、拾って見たところが、側たんだけだった。そしてちょっとばか先行ったら、レンズが落ちとった。向こうに電池が一つまた一つ、中にこうそれを抑えるぜんまいのようなのがついておって、最後の蓋が。まあ5へんか6っぺんかにずうっと落ちていたのを拾うて行って、それをこう合わせたら。
 ぴしっと電気がその明りが点いたというお知らせを頂いた事があった。だからどの一つを拾い損のうておっても、光にはならんのです。例えば御理解百節と言うてもです、ね、ここにきゃ、つんのけとこじゃおかげにゃならんのです百節には。そこでなら金光様のご信心、金光大神はどういう信心を教えられるかと言うと「実意丁寧神信心」と、こう言われるのです。しかも天地日月の心と言う様にでね、言うならば教えの焦点をはっきりして、それをその焦点に向って近づいていくという事。ね。
 もうほんとに心が豊かになり、心がほんとに有り難いな、有り難いなという、その有り難いと言う事に、使こうてこなせれるようになる稽古が、言わば金光大神のみ教えなんです。だからそうなっていきよらんなら、いやあ自分なこのくらいの事が、まあだ腹が立ちよる、もうかつんと来た、これだけは許されんという間はです、だから繁盛にはならん。その時そん時のおかげは。
 今も申しますように、初めて参って来ても、目が見えるようになって、助からんという病人が助かるようになってというおかげは受けられても、家繁盛子孫繁盛、愈々目出度めでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁る、しごると言う様な、おかげにはならないです。その一つ一つを自分のものに身に付けていくというその手立てが、言うならば合楽理念と言うてもよし、合楽で教えられている事と言うてもよいのです。
 昨日は神愛会でしたが、壱岐の末永先生が今度のご大祭のお祝詞の最後のところに「合楽理念の実験実証教会としてのおかげを」と言うところが御座いました。もうそれが非常に感動的に受け止められたと。まっここに関係をもっておられるお教会ですあら。親先生が自分達のような関係教会の上に、こんな祈りを持っておって下さる。実験そして実証教会としてのおおみかげをと。そのおおみかげをまあ顕さなければならんが、これは関係教会だけの事じゃない。
 いうなら関係信者であってもよい、ここの言うならば信者信奉者の皆さんの一人一人がですね、合楽理念の実験実証家庭としてのおかげを頂いて貰わなきゃならんのです。今その事が、私の御祈念の時にお願いでけれる、いわば実証教会としてのおかげを頂かせて下さいという教会は、家庭はそう沢山ないです。ね。これにはどうしても家庭が勢を揃えた信心しておる家庭でなからなければ、そういう祈りは持たれんです。
 そのまいっちょ前の、いうならば、家庭が勢を揃えた信心が出来ますように、という願いがでけて、そして家庭が勢を揃えた信心をするようになったら、ただ一家中で信心しござるというだけじゃない。それがいよいよ合楽理念の実験家庭であり、または実証家庭であるようにと言うて、願わしてもらいます。自分の上にだけ現れてくる、のでは小さい。一家をあげての、いわゆる実証家庭にならなければならない。そして今日、百節にありますように「目出度めでたの若松様よ。
 枝も栄える葉も繁るというではないか。金光大神はその家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ」と。親が一生懸命にどんなに信心しよっても、子供が信心しなかったらば、子孫繁盛には、これはもう分からんでしょうが。だから実証家庭としては、やはり子も親も家内も主人も、一蓮托生の信心のおかげを頂いて、一蓮托生のおかげを頂かなければ、ね。一蓮托生というのは例えば合楽の、いうならばお徳の船に乗らせて頂くと言う意味なんです、一蓮托生と言うのは。
 蓮の葉うてなの上に一家中の者が座られるという意味なんです。だからどうでも家族勢を揃えた信心、そして、いうならば一家をもって、合楽理念の実証家庭としてのおかげを頂かせてもらわなければなりません。でないと最後の「子孫繁盛家繁盛」にならんもん。いくらどんなに繁盛しとったっちゃ、子供がちゃんと失のうっしまうもん必ずね。その為には、例えばお互いが信心をさせて頂く、言うならば99節を通って初めて百節であると言う事出御座います。ね。
 昨日先生方の研修の時に、熊本の山田先生が発表してました。もう自分話はできん。けれども頂いておるおかげを、矢張りお話をするとついやっぱ熱っぽくなって、もう一生懸命でお話をするんです。もうこちらが吊り込まれるような。話の筋が良いとか悪いやないけどもね、もう一生懸命のものを、もうとにかく親先生とこう通ずる、こう通うておるというお話を致しました。
 もう目をつぶって御祈念をすれば、ちらっと親先生がもう目の前に現れて下さる。難しい難儀な問題のお取次ぎさせて頂く時に「親先生」と言ったら、親先生がもうお取次ぎをして下さる様子を感じる。私の方の信者は、もうほんとにお恥ずかしい話ですけども、私自身が、それこそ下水から這い上がったような、信心ですから信者もまた同んなじような信者が集まって来る、という話をしてました。「もうほんとに先生方みんなこうしてみえた、『おかげの泉』なんかでも、何十冊というて持って帰られる。
 所が私の方はもう私が一人読んで、皆んなに読もうち、読みきるとがおらん。内容の意味を、意味が分からん。「もう私どもにゃそういうとばっかりです」と言うのです。だから信者がないかち言うとあるとです。だから私思うのにですね、金光様の先生と言うなら、もうピンからキリまであらなければいけないと思うですね。自分がどぶから這い上がったような人間だから、んなら這い上がろうとして、言うならもがき苦しんでおる人達が助かる為には、やっぱりそういう先生もおらなきゃ出来ないちゅう事。
 もうそれこそあの教会を植木教会に行くちゅうのに、信者は一人もいないのですからね。もうとにかく便所も使われん、炊事場も使われんもうお手洗いの水という、いうのは中にぼうふらが、このくらいばっかりの小さいお手洗いがあるが、ぼうふらがわいとると。下水は投げっぱなしたれっぱなし、たれ流しでもうどうにもでけない。それをなら今日までにきちっと、いうなら自動車が来たら自動車の駐車まで出来るくらいに、ようなふうに、段々おかげを頂いて来た。お広前も整うて来た。
 けれども信者は、私同様の言うならば信者しか集まってこんとこう言う。それでもそれがおかげを受けておると言う事。是をここから大祭たんびに先生が参りますが、大祭たんびにおかげを頂いておる。それはもうお供えなんかはもう、合楽のごたるち言います。 しかもこれは繁雄さんと先日話した事でしたけども、私は山田先生は分からんち、たんびにこうやってご造営のお供えは、あの教会でどうしてこれが出来るじゃろうか、と言うように、おかげ頂いとるです。
 昨日も私はええ、いつも山田先生が座る所の席が、もう二番目あそこに座るんです。それがもう始まったばってん、来とりませんでしたからね。はぁ今日は来んばいのと思よりました。そして、あのビデオ見せて頂きよりましたから、横がわの方でこう見せて頂いて。だからずらっともう並んどられるから、はあさあどうぞ皆んな詰めなさい、と言うて言うのだけれども、私もうっかりしてそこがいっちょあいとった。そして半ばにひょろっとやって来たんですよ。
 だから「山田先生どうぞ」と言うて、いつもの席の所へ座る訳で、だからそのもう親先生と通うておると言う事の話をした後に、確かに通うちゃおるばのと今日どんがそげんじゃったろうが。あんたが席がちゃんと是だけいっぱい座っておられるとに、ここだけがあいとるけんのと言うてまあ話した事でした。ですからねあたしゃ申しましたが今はそれこそ汚い所から這い上がってような信者じゃろうけれども、ま一時しよって見よんの熊本県知事やら熊本市長が参って来るごとなるばいち私し申しました。
 問題は高めなさいて。自分が高められなけれ、自分が太らなければ、言わば太い大きな、また立派なと言う事にはならんて。うここから這い上がっていきよると言う事が、有り難いじゃないかと。昨日富永先生が、お話しておられました。もうとにかくある事件、もうとにかくもう、それこそ腹の立つような、ああ問題が色々起こったその事を、まあ色々詳しゅう話しておられましたが、その時にその激昂した。
 それの日を境に、病気になられたんだそうです。それがそのもう迷惑せんばんの話から、そういう事になられたんです。そしてもう死ぬか生きるかという時でも、もう俺が死ぬる時には、あんやつが頭にちゅうのうばいっちょ打ち込んでからでなければ死なれんと、思うて来たと言われるんです。それのあんやつがあげなこつ言うたりしたりしたけん、自分のこの病気になったともう思い込んでおったとこう言うんです。
 そして信心を頂くようになって、おかげを頂いてでも、まあだそういう気持ちであったと「わたくし合楽で、ご縁を頂いて、一番素晴らしい信心を自分が頂いておると思う事は、一切が神愛という事が分かった事だ」と言っておられるです。それこそ死ぬ時には、そんやつが頭に、ちゅうのうの打ち込んで死のうと思うようなその人の事が、あれが神様だったと、分かるようになったと、話しておられるです。
 言うなら信心の言うなら根底になる、根本と言う事。合楽の信心はここからいわゆる第一節、第二節、第三節で、九十九節、百節と言う事になってくるんじゃないでしょうか。いかになら私しがです関係教会がどうぞ、合楽理念の実験者実証者、そしてその実証教会としての実を上げて行く様にと言うてもです、そこん所の精進がなされないで、おかげの頂けるはずはありません。
 なここの直接の信奉者信者の方だって、おんなじ事です。これはね祝いめでたの若松様よというのは、その場でお祝いのようなおかげを頂いた、目出度いおかげを頂いたというだけじゃないです。金光大神は、いうならば子孫繁盛家繁盛の道を教えられるから、めでためでたという事になるのです。それには矢張り通る所を通らなきゃいけんなと言う事になるのです。んなら通るとこ通ると言う事は、まあほらじゅつない事だな、というのではなくて、それこそそれをなそうと思えば、子供でも出来れる。
 誰でも出来ると言う様に、いうなら噛んで含めるように、しかもその気になると物事というものは、自分が体得していく自分が経験していく、自分が血に肉になっていきよるとが分かって来ると、それが楽しゅうなって有り難くなって来るという、生き方が合楽理念には説かれる訳なんです。どうでもいうならば金光大神の御教えというものは、けしてオーバーなものではない。おかげが頂けるんだと、そのいわば実証していっておるのが、合楽だと思うです。ね。
 その合楽がです、教祖の御教えの散漫になりそうな御教えを、こうまあ整理すると言うか、もう生粋の所をね、こう頂き合わせて、一つの理念にまで高めておるのが、合楽理念だと思うんです。だからどうでもその実験者、そして一つ一つ実証していけれる信心。ただお願いをしておかげを頂いた、おかげを頂いたと言う事が、それは十年二十年続いたからというていうならば、目出度めでたというおかげにはなりません。
 昨日私終ってから、先生方みんなお食事を一緒させて貰ったですけども。もうほんとにまあ先生方が見える時に、色々お土産持って来るんです。お肉を持って来る先生もありゃ、お魚を持って来る先生もあると。ほんとにあのだから神愛会の日は楽しい。おご馳走がいっぱいでけて。けどもここの神様もいつも働きなさる。その神愛会の方達のためにと思うように。先日からマツタケば頂いとった。早マツタケと言うでしょうかね。今頃出来るまったけ。もうそれこそお吸い物でまあほんと僅かばかりですから。
 あのお吸い物で、今頃まつたけのお吸い物が頂ける、ほんとに素晴らしい事だと。私そういうおかげがです、しかもその時だけじゃない、いつも頂けていくおかげを頂いて、初めてめでためでたと言う事になるのじゃないかと、こう思うんです。それこそまつたけです。それに春菊のなんか甘味が入って、もうほんとに何とも言えん、まあお吸い物をまあ頂かせて頂きながら思うんです。ほんとに神様の働きのまあ微妙な事。
 その微妙な働きを受けさせて頂くためにです、昨日桜井先生が発表しておられる。先日から一番下の美津枝さん、一番下と言うてももう高校生ですけども、帰りがけに単車にぶつかられた。それがおかげで、怪我はしとらんけれども、そのよっぽど妙な所、足のここんとこちょっとこう痛い。傷がこういっとる。そん時にです、もう頭ん中にさっとひらめいたのは、親先生が椛目時代に、若先生が丁度親先生の目の前で、今頃のように、その単車とか、自動車が少ない自転車ばっかりというような時代ですから。
 丁度私の目の前でですね、こうたてしにすうっとオムニヤクの自転車でした、ひいて通ったんです。それで近所のまあ、おじさんが走って出て来てから、その自転車ばつかまえちから、そのどうもしとらんですかと。まあいうなら捕まえとってやって、お菓子箱のいっちょも取ってやろうという親切でしたけれども、私が「いやあ、どうもすいません、どうぞ、急ぎよんなさっとにすいません。どうぞはよいって下さい」と言うてやったから、隣のそのおじさん。自転車捕まえてやっとった人が、大変腹かいて折角自分が捕まえてやっとったのに、というて腹かかれた事があったが。
 よくこの話をしますよね。そうでしょうが。例えば若先生がちょろちょろ出て行かんならば。そげな事は起らんとじゃから。返ってご迷惑かけとると。その事が頭にちらっとこうひらめいた。やあだからおかげ頂いたね、と言うただけで、「そりゃあんた、単車の番号だん覚えとっとの」と、言う様な思いは、これからもいうならば起こらなかった、という話をされました。末永先生がそれを言ってます。「ほんとに、桜井先生の和賀心の世界ですね」と言うております。
 是はもうとっさの場合ですから、お互いの心の状態がどう育っておるか、と言う事がそういう時に分かるんです。誰がどうこう言うたけれども、かちっと来たというごたる事ではね、いつまでたっても実験しよらん、実証していくて言う事はでけんです。ほんとに自分ながら、ほんとに日頃の教えが身に付いて、こういう時にこういう受け方ができると言う事は有り難い。だから信心が楽しいんです。そういう私は信心を愈々身に付けていきながらね、いわゆるその、御理解百節に到達する信心。
 今繁盛のおかげじゃない、それこそ子にも孫にも、これなら絶対伝わるだろうと言う様な、子孫繁盛の道を愈々体得していく。それはいうなら実意丁寧神信心による以外にはない。一つこれは大事にしたけれども、これは大事にせんと言った様な事ではつまらん。一切が神愛だと分かった時にです、それが出来れるおかげを頂くのです。でけない所は詫びて、いうなら気付いた所は詫びて通っていくと言う様なね、信心を愈々身につけて御理解百節にあるような内容の、おかげを頂きたいですね。
   どうぞ。